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「馬鹿げた」アイデアから生まれた3つの世界的なサービス
みんながだめだと言うから、成功すると思った。
これは日本マクドナルドの創業者、藤田 田氏の言葉である。この「みんなにだめだと言われた」マクドナルドは1971年、銀座の目抜き通りにその第1号店を構え、結果として日本人なら誰もが知っている国民的ファーストフードとなる大成功を収めた。
このように、私たちが日々当たり前のように使っている様々な製品・サービスの中には、マクドナルドの例のように、はじめのうちは日が当たらずとも地道にトライし続け、今となっては世界中で使われるようになった例が数多く存在する。
今回は、国内外の有名企業の内部で「一見馬鹿げた」アイデアが生まれ、社内での批判を受けつつも世の中に出て、結果としてユーザーが求めていたものを提供することができ、大きな成功を収めた3つの事例を紹介する。
1. Facebook「いいね」ボタン
「いいね」はハッカソンで生まれた
今となってはソーシャルメディアのシンボルとなっている「いいね」ボタン。この始まりは、2007年に米Facebookが社内でのイノベーション創出を目指して行ったハッカソンの中で生まれたアイデアで、その生みの親はリア・パールマンという1人の女性社員であった。
当初彼女は以下のような課題意識を持っており、これらを一挙に解決するためのシンプルな方法として、「いいね」ボタンのアイデアを生みだした。(ちなみに当時は「いいね」ではなく「Awesome (最高)ボタン」と呼ばれ、現在のハートマークではなく星のマークを採用していた)
- 大学の卒業や入社、結婚、出産等おめでたい投稿に対する「おめでとう!」のように、同じようなコメントが1つの投稿に大量に寄せられてしまうこと
- 別のユーザーが投稿を実際に見たかどうかを簡単に示す方法がないこと
- ユーザーが自分の投稿がどれだけの人に楽しまれているかを簡単に知ることができないこと
- Facebookとして、各ユーザーのニュースフィードに流すコンテンツの最適化ができていないこと
「呪いのプロジェクト」がFacebookのシンボルに
このアイデアが生まれてからも、十分にシンプルで小さく、クリアなデザインにたどり着くため、実に9ヶ月もの時間を費やし、その間何百もの試作品を作り出した。この過程の中で、他のメンバーは何度もこのアイデアを捨ててしまおうとしたが、彼女だけは決して諦めなかった。
「プロジェクトが頓挫しそうになるたび、自分でFacebookを使ってみるのです。そうすると、やはりまだ何かが足りないと感じる。欠けているのはこの機能だ、と確信していました。」と彼女は言う。
ある程度デザインが固まった後でも、社内におけるこのアイデアの支持者はなかなか増えなかった。
実際に、アイデアのプレゼンを聞いたCEOであるマーク・ザッカーバーグでさえ、「ただボタンを押すだけでは、ユーザーがシェアやコメントをしなくなる可能性がある」とのネガティブなフィードバックをしたとされ、このアイデアは「呪いのプロジェクト」とまで呼ばれていた。
彼女は当時を以下のように振り返る。「プロジェクトの心肺蘇生をしているような気分でした。何度も死にかけるものを蘇生させ続けなくてはならない。けれど、この機能なしでは私自分自身がFacebookを使い続けることができないと感じました。」
これは絶対に必要な機能である、という彼女の確信とその情熱が実を結び、アイデアが生まれてから実に2年が経った2009年、「いいね」ボタンはついにローンチを果たす。
この機能は我々の知る通り瞬く間に多くのユーザーに愛され、現在では1分間に約400万回の「いいね」がFacebook上で生まれている。「呪いのプロジェクト」は社内の想定に反してユーザーの心を掴み、Facebook、ひいてはソーシャルメディア全体を代表するアイコンとなったのである。
2. SONY プレイステーション
世界中で愛され続けているゲーム機、プレイステーションも、SONYの一社員の小さなアイデアから生まれたものである。80年代のある日、SONYのサウンドラボに勤めていた久夛良木(クタラギ)健氏は、娘が遊んでいる任天堂ファミコンのサウンドクオリティーの低さに気づく。
ちょうど同じ頃、SONYの情報処理リサーチセンターにて行われたプレゼンに出席した久夛良木氏は、テレビ放送に3Dコンピュータグラフィックをリアルタイムで映し出すことのできる「システムG」という技術の存在を知る。
そして彼は瞬時に、この高精度3Dコンピュータグラフィックの技術をゲーム機に応用することができれば、一挙に市場を独占することができると考えたのである。
久夛良木氏はすぐに行動を起こし、自社の経営層に対して任天堂の新しいコンソール向けサウンドチップを開発、販売すべきだと主張した。
「子供じみたおもちゃ」が世界を席巻するプロダクトに
しかし当時のSONYは、ビデオゲームを単なるおもちゃとしか捉えておらず、そんな子供じみたものの開発に携わるなどということは、SONYのハイエンドな電子機器メーカーとしての地位を損なう、としてその訴えを棄却した。
これに動じなかった久夛良木氏は、個人的に任天堂のゲーム機向けのデジタルサウンドチップ開発を開始。
これを知ったSONYは彼を解雇しかけるが、結局はその将来性を見込み、任天堂とのパートナーシップを組むことに同意する。
しかしこのパートナーシップは、秘密裏に他社との契約を結んでいた任天堂によって突然かつ一方的に破棄されることとなり、これに怒った経営陣は、自社のゲームコンソールを開発するべき、と主張し続ける久夛良木氏に対して「やってみろ」とようやくゴーサインを出したのであった。
1994年に発売された初代プレイステーションは、全世界で約1億200万台を売り上げる大ヒット、その後も後継機や携帯機などが世界中で販売されている。
3. Google Gmail
世界最大の検索エンジンを運営するGoogle社には、有名な「20%ルール」というものが存在する。こ
れは従業員一人一人が、業務時間の20%を通常の職務を離れて従業員自身が取り組みたいプロジェクトに費やすことができる、という仕組みである。
この20%ルールの中で行われたプロジェクトから生まれたのが、学生からビジネスマンまで世界中に多くのユーザーを抱えるGmailである。
Googleでエンジニアとして働くポール・ブックハイトは、大学生の頃から個人的に行なっていたEメールソフトウェアの開発を、20%ルールの時間の中で続けていた。
彼は受信したEメール内を検索する、というシンプルな機能を持つ初期バージョンをわずか1日で完成させ、これがその後のGmailの原型となる。
1日に500通以上のメールをやり取りすることが当たり前だったGoogleではこのアイデアはとても好評で、初期バージョンのローンチからわずか数日で、Googleとして取り組む正式なプロジェクトとなった。
ユーザーもその実現を信じなかった、これまでの約500倍のデータ量
しかしプロジェクト開始後に直面したのは、データ量の問題であった。90年代当時、スタンダードなデータ量は2〜4MBであり、その当時普及していたマイクロソフトのHotmailでさえその程度のデータ量であった。
Googleはその約500倍ものデータストレージを目指したため、結果として初期の企画からローンチまで約3年を要することとなった。
しかしローンチ時には実際に500倍のデータ量を実現し、発表を行ったのが4月1日のエイプリルフールであったことも手伝って、多くのユーザーがジョークだと思い本当のサービスだとは信じなかったという逸話がある。
今や私たちの日常に欠かせない製品やサービスが、小さなアイデア、一見馬鹿げていると思われてしまうようなアイデアから生まれていた、ということはあまり知られていないだろう。
今回紹介した3つの事例に共通するのは、開発者のアイデアに対する信念の強さが、イノベーティブな製品・サービスが世に出るか否かを大きく左右した、ということである。
この点を少し深掘りしてみると、以下のような2つの教訓を得られるのではないだろうか。
「ユーザーが求めているもの」に言い訳は通用しない
新たなサービスを生み出す際ユーザーに言い訳は通用しないのだ。「承認プロセスが面倒だから」、「時間がかかるから」、「コストがかかるから」、というような言い訳をかき消す程に「これはきっとユーザーの求めているものだ!」と強く信じた誰かがいたからこそ、今私たちの生活を豊かにしてくれている製品・サービスが実現したのだろう。
柔軟に物事を考えてアイデアに「辿り着く」
気になることは何でもすぐに検索でき、多様な人と簡単につながりを持つことのできるこの時代、アイデアが生まれるチャンス自体も広がっているはずだ。
しかし、自分自身が「これだ」と確信して、その可能性を心から信じることのできるようなアイデアにたどり着くことは、それを実現させることと同じくらい難しいことだろう。だからこそ、固定概念に囚われない柔軟な考え方が必要なのかもしれない。
人間誰もが「現状維持」というバイアスを持っていることを考えれば、アイデアが奇抜であればあるほど受ける批判も大きくなるのは当たり前である。しかし、そこで諦めるのではなく行動に起こし続けることで見えてくるものもある。
なので、新しいものを生み出すためにはユーザーが求めるものに貪欲になりつつ、柔軟な考え方を身につけていくことが大切だろう。